裁判の意味が不明

朝、カレーライス食べる。フライパンに湯をわかし、カレーの鍋を湯煎したら、焦がさずに温めることができた。

昼、ジョギングする。しかし、外があまりにも寒かったので、日なたしか走る気がせず、近所の陸上トラックへ行き、5キロほどぐるぐる回った。

風呂に入り、昼飯に納豆2パックとご飯を食べた。納豆は、年末にオーケーストアへ買い物に行ったとき、安さに浮かれて6パック買ってしまい、気がつくと賞味期限が明日に迫ってしまった。シャウエッセンもそうで、ウエルシアでふたパック298円くらいで売っていたため、これもキャッキャ言いながら買ってしまった。残りひとパックの賞味期限は1月10日だったので、もう4日も過ぎている。

Amazon Prime Videoで、シアーシャ・ローナン主演『Foe』を見た。和タイトルは『もっと遠くへ行こう。』だった。中途半端な読点がついているのが気になったが、イアン・リード原作小説の邦題がそれだった。

イアン・リードの作品を他に検索したら、『もう終わりにしよう。』という作品もあった。わざとやってるんだな。全作品それで押し通して欲しい。

映画の方は、タイトル同様微妙だった。SFではあるのだけど、近未来にする必然性はそれほどなく、ひと言でいえば、クローン人間という存在にまつわるおのおのの葛藤、である。その『おのおの』のメインが、夫婦というわけ。

シアーシャは妻を演じていた。未来が見えないと感じる不安な日常を送っており、夫との関係も冷え切っている。夫が、宇宙ステーションの移住メンバーに選ばれ、強制別居させられることになるのだが、夫の代わりに夫のクローン人間があてがわれるという設定だった。地球はそれほど後がないのだという意味では、近未来設定が生きているかもしれない。ラストの種明かしで、妻はそれを望んでいたのかもしれないと思わされる。

ベッドシーンはやや多めなのだが、必然性は乏しかった。政府関係の男を演じるアーロン・ピエールは、すごいイケメンだなあと思ったが、笑みを浮かべる芝居がやや多いと思った。夫婦に伝える内容がそれなのに、笑みなんか浮かべたら、相手はキレるだろう。そのへん、若いのかなと思った。調べると29歳の俳優だった。若っ!

微妙な映画ではあったが、シアーシャの芝居を堪能することだけが目的だったので、不満はなかった。過去作『ビザンチウム』『ザ・ホスト』『ロスト・リバー』に似た世界観だと思った。

夜、ホットドッグ食べる。

『ワイドナショー』本日の放送録画を見る。松本人志の休業宣言について出演者が色々語っていた。

裁判になるとしたら、被害者の女性と松本人志の間で争われるべきだし、争点は性的被害があったかどうかになるだろう。それが今や、吉本興業と文春による、名誉毀損の争いということになっている。このズレが被害者女性を救うものであるはずはない。

彼女の発言は、文春を通してしか、我々は目にできていない。これが弁護士を通してだったら、まだわかる。文春を通してのみという状態で、関係ない世間がやいやい言うのは、とち狂っている。

一番おかししいのは、松本弁護の声が出ると、性的被害に遭った女性がどれだけ苦しんでいるのかわかっていない、という批判が、反射のように起こることである。そもそも、その点をはっきりさせるのが裁判なわけで、今は推定無罪だろう。だから、もちろん松本弁護もするべきではないのだがが、反射でそんなことを抜かす人が多いという空気が、松本関係者に思わず弁護の言葉を言わせている。で、裁判が、性的暴行という犯罪を裁くというものではないという馬鹿らしさだ。

被害者女性は、とにかく松本人志を告訴するべきだ。それによって、これまで性的暴行にあっても泣き寝入りしてきた『タレントの卵』たちを守ることになるのだし、プライバシーの確保についても、文春よりむしろ、安全なはずだ。ここまで問題が大きくなったら、法律に守ってもらった方が、安心して裁判できるだろう。

訴えないのは嘘だからだ、とは言わない。ただ、ジャニーズ事務所問題で勇気を持てたのなら、なぜ訴える代わりに、文春を介したのか? それ、方法の選び方が間違っている。先に警察や弁護士に訴えて、それを文春が記事にするのなら、大いにわかるが。

自分が受けた被害を拡散するために文春を手段として選んだのだとしたら、たとえその意志がなくても、『松本を効率的に破滅させてやる』という意志があるから、となるぞ。

その意志を抱くほどの憎しみがあり、それが性的暴行ゆえであるというなら、これもまた、わからなくもない。しかしその場合、憎しみのあり方と、8年の期間が、どうしても矛盾する。

もし吉本が告訴しなかったら、裁判は起きなかったということになる。これもおかしい。だって、文春が記事にしたのは、松本のしていることは性犯罪であるということだし、それにも関わらず、裁判にしない状態は黙認し、でも記事にはして、雑誌の売り上げ増を目論んでいるということだから。

これ、ジャーナリズムかねえ?

スクープ週刊誌に徹するなら、それはそれでいいのだが、『文春砲』などという世間が奉ったあだ名に、文春が権力意識を持っているような印象もある。泣く子も黙る文春だぞ? ジャニーズつぶした文春だぞ? か?

実家で、母が文春をよく買っているので、読む機会は多いのだけど、スクープに興味がないので、読むのはもっぱら、書評ページだ。文春の書評は非常に充実している。連載も協力で、週刊新潮とは雲泥の差だと思う。しかし、スクープ部分のゲスさは、なんだろう? 今の時代そうしないと、やっぱり、売れないのか?

吉本と文春の裁判が長引くとして、判決が出る頃、松本問題は人々の興味をひかなくなっているだろう。たとえば、そのあと松ちゃんが復帰するとしても、需要は絶対ないわけで、そうなると、一体この裁判は、誰が何のためにやっているのか、まったくわからない。