窓の外が明るくなっており、寝坊したかと思って起きるとまだ7時だった。風呂に入ると汗がよく出た。
立正大の桜がだいぶ散っていた。一昨日と昨日の暖かさがそうさせた。今日は少し涼しかった。それでも春の気温だった。
花粉症に苦しんでいた頃、桜が咲くと症状が一段落した。辛いのは二月末から三月にかけてだった。
午前中、オペレーション作業をしながら、色々な仕事があるものだとぼんやり考える。先日実家に帰った時、ある会社のことを話した。技術職の派遣労働者がトイレ当番を言い渡され、男性なのに女性用もするようにと言われて辞めた話。
当番自体は全員やっているなら構わないが、女子トイレもさせようとするのはおかしい。居酒屋でバイトしていた時、トイレは一時間おきにチェックしていたが、女子トイレは女性が見た。当番制システムの実行が目的になり、きれいにするという目的と乖離している。
その話を聞いていた父は、しばらく考えてから、「オレだったら、ちゃんとやるな」と言った。父にはそういうところがある。反骨心と裏腹の、生真面目な忠誠心のようなものを持っている。その二つは相矛盾しつつ、補完し合う関係にあり、父の性格を形作っている。おそらく母が永久に理解できない心の動き方だろう。夫婦ケンカの原因はそこにある。
かといって、母が単純な性格をもっているわけではない。おしゃべりで聞き上手だったが、黙っている時の知恵は深く、その沈黙が長い時ほど、発する言葉には重みがあった。だが、還暦を過ぎてパートをやめ、耳が遠くなってきたころから、テレビばかり見るようになり、知恵の沈黙も失われた。
テレビがつまらなくなったとよく言われるが、それだけではないと思う。見続けることで人の精神を変容させ、心の陰影を奪い、感受性を歪める要素もある。番組にかかっているバイアスは、視聴者にも影響を与える。感受性が強い人はテレビから遠ざかるだろう。ユーザーの感受性が鈍い方が、ビジネスとしては簡単だ。
父の場合、テレビは映画の代用品で、映画やドラマ以外で見るのは、スポーツ番組とドキュメンタリーだけだ。テレビ番組によって性格が変わったということはない。
フジテレビが、みなさんとめちゃイケを終わらせた。危機感があるのは間違いないと思う。しかし、視聴者が本当に見たがっているものを作ると力んでいるのは、いかがなものか。勘違いがそこにある。オレが見たいと思うものを作ろうとする人が、オレが見たいものを作れるワケがない。
90年代のフジテレビは、深夜に面白い番組を沢山やっていた。視聴者が見たがっているものという発想では、「カノッサの屈辱」や「カルトQ」という番組は作れなかった。
夕方、ビバホームに寄り、トマトときゅうりの苗を買う。水耕栽培用。トマトだけでは容器が大きいのできゅうりも買ってみた。
夜、スパゲティにジェノベーゼソースをかけて食べた。うまくない。やはり、ソースのせいだ。業務スーパーの食材は、テキ屋仕様と思った方がいい。
トマトは、一昨年地植えをし、去年は水耕栽培をした。どちらも7月半ばにしおれた。一昨年は夏に復活したが、その後実をつけることなく終わった。去年はそのまま枯れてしまった。今年は開始時期がひと月以上早い。7月が鬼門だとすれば、それまでの期間が長くなる分、収穫量が増えてくれないかと思っている。