朝飯にご飯と味噌汁。しばらく一汁一菜に戻ろうと思う。
「12時間後のオレだが、無駄な努力だったようだな」
なにか聞こえたような気がした。
スタディサプリをやる。新スマホなのでログインしなおさなければならなかった。学習履歴は残っていたのでホッとした。
午前中、依頼仕事とルーティンワーク。ツール作業は手が出せず。
昼、「243 IN THE DINING」で、そぼろ牛肉をのせたトルコ風のライス料理を食べた。名前が覚えられなかった。
この店は旨い。客は女性が多い。会計する時に厨房を覗いたら、男の二の腕が見えた。料理を作っているのは女性じゃなかったようだ。運んでいる女性とは夫婦なのだろうか。新宿でダイニングバー経営は、賃貸料とか大変じゃないかな。ランチに関しては今のところ外れがないので、今後も通っていこうと思う。夜にも行ってみたいものだ。
午後、ルーティンワーク。3時過ぎに落ち着いた。
席を移ってくれと頼まれたので、PCの移動をした。マルチディスプレイなので、切り替え機をつなぎ直さないといけない。これがややこしい。自分で接続したものならわかるが、そうでないために自力でやらないといけない。助力なし。メッセージは簡潔。生きろ。糸井め。ならやったると、タタリ神になった猪の体から生えてくる触手みたいなディスプレイケーブル類と格闘した。パズルを解くような小一時間があり、ヤドカリは無事に別の貝殻へ移動した。キーボードが変わり、カタカタ音が目立つようになった。気をつけないと、「オフィスでムカつく奴あるある系」のヤドカリ男になってしまう。
季節のお仕事準備は無事終わった。
夕方、方南町のサイクルスポットで自転車の月一点検をしてもらった。ブレーキパッドの交換が必要とのことだった。
待っている間、「りょうたん亭」でワンタン麺を食べた。そういえば今朝、しばらくは一汁一菜食にしようと言ってたうな気がする。やめとけと、今朝の自分に伝えに行かねば。
伝えてきた。
7時帰宅。白ワインの炭酸割りを飲んだ。
「攻殻機動隊」をまた見た。
宮崎駿の映画は100人が1回は見るが、押井守の映画は100人中1人だけが100回見るという。オレは後者の人間だなあと思う。高校三年生の時、録画した「ビューティフルドリーマー」を何十回も見返した。ただし、「ナウシカ」と「ラピュタ」も見返しルーティンに入っていたが。
そして、同じ作品だけでは飽き足らなくなり、他のアニメ作品を借りて見るようになった。アニメージュも毎月買い、さらに、神保町でアニメージュのバックナンバーまで揃えた。
ドハマり。
そんな頃、アニメージュで、読書の秋特集が組まれた。アニメ界のさまざまな人たちが、読書について語り、おすすめの一冊を挙げる企画だった。
その中で押井守はこんなことを言っていた。
「高校生の頃は生きているのがしんどかった」
「学校から帰ると夜中まで寝て、起きてからずっとSFを読んでいた」
「本の中の方が現実であるかのようだった」
「光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』を読んだ時、本に没入するあまり、自分が誰で、今どこにいるかわからなるほど感動した」
「光瀬龍に会いに行き、話をした」
だいたいこんな内容だった。
すぐに神保町の書泉グランデで『百億の昼と千億の夜』を買って読んだのだが、18歳だったオレの知能レベルや社会的成熟度は15歳レベルだったので、何が何だかよくわからなかった。
しかし、「高校生の頃は生きているのがしんどかった」という言葉には強いシンパシーを感じ、その後も押井守の行動を真似るように、SF小説に読みふけった。
およそ四ヶ月後に合格した大学は、押井守の母校と同じだった。まったくの偶然である。
合格したとたん、アニメへの興味が瞬時に失せた。
今思えば、高校三年生の一時期だけアニメファンでいた状態の方が例外的だったのだ。明らかにアニメは、受験からの逃避先になっていた。また、逃避しやすいジャンルでもあった。
アニメの興味が失せた二ヶ月後に演劇を始めたが、演劇は逃避先になったことがこれまでに一度もない。だから良いとか悪いとかいう話ではない。演劇から逃避したことはあるから。逃避っていっても、大したレベルじゃないけれども。稽古後にパチンコ行ったり、家でゲームやったり。そんなものだ。
ゲームへの逃避は、高校生の時のアニメ逃避に似ていた。そして、より始末が悪かった。卒論の締切が迫っている時、家で七転八倒した挙句、外に出て中古ゲーム屋をめぐり、ドラクエの1から3を買い揃え、家で順番にクリアしていた。そんなことしてなんになる?
結局、いよいよやばいという時になってやっと書き始め、丸二日間寝ないで書いた。たぶん、今の方がまともなものを書けるような気がする。
「ビューティフルドリーマー」は、何かから逃避したいという気分にピッタリとはまる作品だと思う。
だが、原作の「うる星やつら」は、主人公がずっと高校二年生というループシステムを採用していたがゆえに、「ビューティフルドリーマー」が表現した、学園祭前日がいつまでも続く感じを、地でやっていた。
しかし、読んでいてそれを意識させられることはなかった。「サザエさん」も「ドラえもん」もそうだし、マンガはそういうものだと思っていたから。
「ビューティフルドリーマー」は、そうしたループの有限性をさらけ出し、かつ、逃避願望のある人間を惹きつけ、その願望を欲望レベルに引き上げるような、危険な作品だったのか?
しかし、「攻殻機動隊」には、逃避願望を満たす要素はない。それでも、何回も見たくなる。
全体の中に数カ所、(あれは一体どういうことだろう?)と、あとになってからも考えさせる場面がある。そして、(もしかしてこういうことかな?)と思ったら、もう一度再生ボタンを押さざるを得なくなっている。
「ビューティフルドリーマー」も、そんな場面があった。繰り返し見てしまうのはそれゆえであった。そして、繰り返して見るという行為自体が、逃避先の地ならしになっているのかもしれない。