体調不良で一日引きこもる。
起きるためにいつも、カーテンを少し開けておくのだが、仕事先に連絡してからカーテンを閉じた。
部屋が暗くなると睡眠はとりやすい。
のどの痛みと発熱と、胃が動かなくなる感じがあった。
食べ物が消化されず、いつまでも胃に残っているような感覚だ。
去年の2月にも同じ症状になった。
その時は仕事に行き、帰りに約束が会った人と飲んだ。
キュウリみたいな顔色になっていたらしく、
「無理しないでくださいよ」
と言われた。
大島に行った時、明日葉そばというものを食べた。
そばアレルギーなので、そば粉を使用していないことを確認した。
風味も食感もそばにそっくりだった。
そのためだろうか、食後、胃が動かなくなった。
脳がだまされ、一種のプラシーボ効果を起こしたのだと思う。
自分にとって、胃が動かなくなるという反応は、純粋に心因性によるものだ。
ストレスで胃潰瘍になるのと同じだ。
逆に言えば、この症状が出たら、最近の生活を振り返って、どういうストレスを感じてきたか思い出せばいい。
最近ではなく、今年は延々とストレスを感じ続けてきたと思う。
どれもこれも、結局は自分でなんとかするしかない。
昼間から寝っ転がっていると、これからどうなるんだろうという不安に襲われた。
二十代の時にやった治験のバイトでも、同じ不安を感じた。
その頃のことを思い出す。
2泊3日入院し、薬の効果を確かめるバイトだった。
芝居が終わった直後で、家賃を払う金もなくなり、すがりつくように応募したんだと思う。
11月のはじめ頃だった。
注射を打たれて、あとはベッドで本を読むか、休憩室でゲームをしたり漫画を読んでいればよかった。
その仕事ばかりやっている若者がいて、看護婦さんに、
「たばこいつから吸えんのー?」
と話しかけていた。
「3日くらい我慢しなさいよ」
「えー、だって、吸いてえもん」
嫌悪感でいっぱいになりベッドに戻ったが、結局のところ自分もそいつと同じで、体を売って金を稼いでいる。
そう思うと、このままじゃいけないという気になった。
3日のバイトで8万円ほどの報酬をもらった。
たまった家賃と借金の支払いで金はすぐに消えた。
当時働いていた高田馬場の居酒屋へ行き、入れる限りすべての日に仕事を入れた。
とにかく働こうと思った。
早番は17時から0時。遅番は22時から4時。通しは17時から4時。
本当は通しで毎日働きたかったが、シフトは結構埋まっており、早番と遅番の組み合わせが多かった。
交通費を節約するために、バイクで仕事に通った。
早稲田通りに停めていたら、たまたま道路工事をする区域で、0時に仕事を終えた時バイクが遠くに移動されていたことがある。
ヘルメットをかぶろうとしたら、自分に気づいた現場のおっさんが怒鳴り散らしながらやってきて、張り手気味に一発殴られた。
体は小さいのに腕がものすごく太いおっさんで、3メートルくらい吹っ飛ばされてしまった。
スーツを着た工事会社の人がおっさんをなだめ、
「今度から停める場所気をつけてね! ほら! 早く行きなさい!」
と言った。
痛いというより驚きの方が強かったが、小金井のアパートに帰ると殴られた頬がぱんぱんに腫れ、ヘルメットを脱ぐのが大変だった。
12月に居酒屋のバイト代が出て、ようやくまともな生活が送れるようになった。
米と塩だけのおにぎりで食いつないでいたから、久しぶりに好きなラーメン屋に入り、ラーメンと餃子とビールを頼んだ。
借金はまだ残っていたが、バイトの給料も上げてもらえたので、4ヶ月も働けば完済できる見通しがついていた。
ちょうどその頃、自分が通っていた養成所で演出助手をしている女性から連絡があり、ある劇団の大道具倉庫の引っ越し手伝いを頼まれた。
引っ越しは大した作業ではなかったが、彼女が自分を呼んだのは別の用件からだった。
「塚本さあ、今、何してるの?」
「働いてますよ」
「芝居やる気ないの?」
「10月に出たじゃないですか。あれで、お金きつくて」
「あのね、今、うちの養成所、経験者がいないんだ。よかったら後期から入ってくれないかな」
その養成所は3期まで所属した者は卒業するのが規則だった。
自分は1期だけいて卒業したのだが、同時に3期生がたくさんやめたので、初めての子ばかりになってしまい大変なのだという。
大いに迷ったが、結局断った。
もしこの時養成所に入り直していたら、自分は役者だけをやっていたと思う。
そして1年半のバイト生活に突入した。
借金を完済し、引っ越しをした。
体は完全に夜型になり、仕事が休みの日でも昼間は寝ていた。
芝居からは遠ざかっていた。
時々、ワープロに向かって台本らしきものを書いてみたけど、どれもものにならなかった。
その間、知人の紹介で一本だけ舞台に出演した。
見に来た母親から、
「あんた、下手になったわねえ」
と遠慮のないことを言われた。
下手になったというより、情熱がないまま出てしまったからだろう。
その言葉に発憤して、オーディションを色々受けたが、どれもこれも駄目だった。
芝居に出たいと思っていないのに受けたからだろう。
その頃、大学の後輩たちがやる芝居が、ものすごく面白かった。
自由気まま、好き勝手に舞台を作り、駆け回っている姿を見て、心底うらやましいと思った。
自分もそういう芝居に出たいと思った。
バイトにも飽きていた。
生活を立て直し、引っ越しをするというという目的を達してしまうと、何のために働いているのかわからなくなってしまった。
治験のバイトから1年以上過ぎた年末、芝居を見に行った帰りに、後輩から呼び止められた。
芝居のことで悩んでいた。
「なんで俺に聞くの?」
「ドカさんは、卒業しても外で色々やってるひとじゃないですか」
その言葉が、かなりこたえた。
俺、何にもやってないよ。
君たちの方が、いいもの作ってるよ。
家に帰り、思案に暮れていると、ちょうどそのタイミングで、知り合いのK君から電話があった。
彼は劇団の主宰をしていた。
忘年会に来ないかという電話だった。
行くと返事をして、しばらく雑談していると、こちらの声の沈み方に気づいたのか、彼は言った。
「どうしたんすか? 暗いですよ」
「あのさ、君、劇団旗揚げたじゃないか。それって何人か仲間がいて、よし作ろうって感じでやったの?」
「テキトーっすよ」
「テキトー?」
「小屋押さえて団体名決めただけです」
「そっか」
「塚本さん、旗揚げ考えてるんですか?」
「うん、芝居、やりたいなあと思って」
「やっちゃえばいいじゃないすか」
「やれるかな」
「大丈夫っすよ」
年が明け、後輩の役者と部室で雑談をしている時。
思わず言ってしまった。
「俺、今年の秋に劇団旗揚げするんだけど、出てくれないかな」
言ってしまった、と思った。
その後輩は喜んで、
「やりたいです!」
と言ってくれた。
こうなると、小屋を押さえるしかない。
アール・コリンを押さえた。
後輩の役者に次々と声をかけた。
友人に制作を頼んだ。
人づてに、スタッフさんを頼んだ。
収入を少しでも増やそうと思って、バイク便に転職した。
そんな感じで、旗揚げ公演に至る。
いい思い出はほとんどない。
ぶざまで、情けないところばかり見せていたと思う。
こんなにも自分は仕事ができなかったのかと思い知らされた。