色々思い出す場所

快晴。暖かかった。
雪がどんどん溶けていた。

仕事を終え帰宅し、着替えて走る。
青梅街道を東へ。

中野坂上から北側の歩道を進んでいたら、前方に見慣れぬ風景が見えた。
職安通りだった。
どうして大久保方面に来ているんだろう。
総武線のガード手前で折り返し、中野坂上で見慣れた青梅街道に合流する。
そのまま家に帰った。
往復16キロ。

パソコンを開いて地図を調べた。
新宿村スタジオあたりで青梅街道から職安通り方面へ道が分かれていた。
歩道を走っているうちに大久保方面へ行ってしまったようだ。
夜は暗いから間違えやすい。

2006年に『ラジコン少年』をやってる頃、すでにその道はあったと思う。
仕事帰りに用事があって自転車で近くに来た記憶がある。
この日だった。
https://mgribbon.com/2006/07/14/2110

おばあちゃんの家は柏木にあった。
成子坂下の三平ストアから細道を入り、左に曲がって進んだあたりだった。
その辺りは90年代頃からゴーストタウンになっていた。
バイクに乗るようになった25歳の時、懐かしくなって通りかかった。
明かりのついた窓の少なさに驚いた。
おばあちゃんの家はまだ残っていた。
おばあちゃんと暮らしていたおじさん夫妻は、ずいぶん前に川崎に引っ越していた。
家はあったけど、血のつながった人はもうその近所にはいなかった。

3歳の頃、母は肩こりの治療のために、週に一回東京医科大の病院に通っていた。
妹と自分はおばあちゃんに預けられた。
おばあちゃんは当時七十代の前半だった。
現在の母と大して違わない年齢だが、おばあちゃんの方がずっと老けていた。
おばあちゃんはいつも駄菓子屋用のお小遣いに十円をくれた。
当時でも十円は安すぎ、風船ガム一つくらいしか買えなかった。
おばあちゃんの家は瓦屋根の平屋で風呂はなかった。
中野坂上方面へ坂を上ると神田川の橋を渡った先に銭湯があった。
泊まる時は銭湯に行けるのが楽しみだった。

その頃の柏木は庶民的な住宅地だった。
おばあちゃんの家の斜め前に花屋があった。
家の前を右に進んで突き当たりを左の方へ行くと、八百屋魚屋米屋酒屋などが一通りそろった商店街があった。

母は末っ子だった。
自分はおばあちゃんにとって、一番ちっこい孫ということになる。
最初の孫、つまり従姉妹は、戦後間もない頃に生まれている。
だから従姉妹と自分は親子くらい年齢が離れている。

おばあちゃんに、孫を猫かわいがりするような空気を感じたことはなかった。
何人もの子供と孫達の面倒を見てきた、面倒見のベテランといってもいい風格があった。
もっとも子供の自分には、それを風格であるととらえる知識や経験などないから、おばあちゃんにはどことなく距離を置いていた。
幼稚園でふざけているような真似をすると怒られるから、大人しくしていた。

おばあちゃんの作る、そうめんのつゆは、絶品だった。
しいたけの戻し汁や、煮干しと鰹の出汁を美味くブレンドしていたと思う。

おばあちゃんは心臓が悪くて、78歳の時に発作を起こして入院した。
初めは新宿の病院。
次に板橋の病院に移り、その次に三鷹の病院に移った。
そこで1月に亡くなった。

おばあちゃんが死んだことを、我が家で最初に知ったのは自分だった。
Oさんという近所の親しいおばさんの家に、何かあったら連絡が行くようにしていたのだ。
その頃母は三菱銀行でパートの仕事をしていた。

学校から帰り家の中に入ってすぐ、Oさんから電話があった。
Oさんは、おばあちゃんが亡くなったと言った。
自分は10歳だった。
父でも母でも妹でもなく、自分が一番初めに知ったことに、ストレスを感じた。
家族にそのニュースを伝えなければいけない。
どうやって伝えればいいのだろう。

やがて母がパートから帰ってきた。
「お母さん、Oさんから電話があったよ。おばあちゃんが死んだって」
「ええっ!」
母はショックを受けていた。
詳しい顛末を聞かれたが、Oさんから聞いたのは、おばあちゃんが亡くなったということだけだった。

母はすぐに着替えておばあちゃんの家に向かった。

家に一人残り、どこからやってくるのかわからない居心地の悪さを感じながら、父と妹の帰りを待った。

父は方向音痴だったので、柏木の家には自分が連れて行くことになった。
地下鉄で中野坂上まで行き、山手通りの交差点から坂を下りる。
その頃すでに銭湯はなかった。
神田川の橋を渡って少し行くとタバコ屋があり、右に曲がるとおばあちゃんの家があった。

母は、おじさんやおばさんと、兄弟だけにしかわからない色々な会話や打ち合わせをすでに済ませていたのだろう。
落ち着いていた。
「おばあちゃんに、さようならしてきなさい」
そう言われた。

おばあちゃんは布団に仰向けに寝かされていた。
顔に白い布はかかってなかった。
眉間にかすかにしわを寄せて眠っているように見えた。
生まれて初めて見た、人の死だった。

翌日はお通夜ということで、母は泊まり、父と妹と自分は家に帰った。

お通夜の日の夜。
親戚が集まって色々な話をしていた。
トイレに行きたくなって部屋を出た。
ふと、遺体が安置されている部屋が気になって、覗いてみた。

母の姉の、おばあちゃんにとって次女にあたる叔母が、遺体の前で正座していた。
叔母は部屋を覗いている自分に気づいていたが、こちらを見ようとせず、涙を流していた。
どうしたらいいのだろうと思った。
中に入り、叔母の隣に正座をした。
そしておばあちゃんに向かい、手を合わせて祈った。

ずいぶん後になってその叔母が、
「あの時の健ちゃん、偉いなあと思ったわ」
と言っていたけ。
違うんだおばちゃん。
何をしたらいいかよくわかんなかったんだよ、俺は。

火葬場でおばあちゃんと最後のお別れをした。
骨になったおばあちゃんを、箸で壺におさめた。
火葬場の帰りのマイクロバスで、ひどい乗り物酔いをした。
もともと乗り物に弱かったが、この時は家に着いたとたん、空き地で吐いてしまった。
父が背中をさすってくれた。

お坊さんがしてくれる話が、とても面白かった。
どういう話をしてくれたのかは覚えてないが、とても熱心に聞いた記憶がある。
興味深そうに聞く十歳のガキを珍しいと思ったのか、そのお坊さんはその後何年も、

「ボクは元気にしてますか?」

と、うちの母に尋ねていたという。
夏休み中に、お寺に来て、修行のようなことをしてみないかと誘われたことさえある。

おばあちゃんが亡くなってから、新宿の柏木は、母方の親戚達が集まる社交場という役割を終えた。
家の持ち主であるおじさんは川崎に引っ越し、家は人手に渡ることになる。

その十数年後、真っ暗な住宅地でバイクにまたがった自分が、住む人のないその家を見ている。

そして今日。
マラソンをしていて気づかなかったけれど、おばあちゃんの家の辺りは、道か、ビルになっているだろう。
そこはもう町ではなく、大都市という巨大生物が、役割を果たすために必要とする、器官の一部になってしまった。

同じようなことが、東京だけではなく日本の、日本だけではなく世界のどこかで、何千年も前から今に至るまで、ひっきりなしに起きている。
人が生まれ、死に、また生まれるのと同じく、町もまた生まれ、死に、また生まれる。

お墓参り、何年も行ってないことに気づいた。
西多摩霊園。
福生からバスが出ている。

両親も、その霊園に墓を買った。
俺も、いずれそこにお世話になるのだろうか。

マラソンが終わって芝居が終わって落ち着いたら、お墓参りに行ってみようか。
場所、覚えているか自信はないけど、事務所の人に聞けばわかるかもしれない。