『阿修羅ガール』

 マグネシウム制作会議で松本健から、舞城王太郎の『阿修羅ガール』を借りたので、昨夜少し読んだ。
 一人称の文体で、主人公が女子高生だ。
 セリフを度外視して心の動きだけを追っていくと、彼女は結構古風だなと思った。
 言葉だけが過剰なまでに、現代社会に適応している。

 ただ、描かれている世界は古風とは正反対で、現実をややグロテスクにデフォルメしてある。
 各個人が潜在意識に沈めているドロドロとした念がインターネットによって解き放たれると、悪夢の共有現象が起こる。
 ある人の悪夢は、別の人の中に眠る悪夢を呼び覚まし、恐慌が伝搬していく。
 行き着く先は、リンチ、総括、虐殺。

 ただ、人間はどこまでも適応していく生き物だから、あと何年かしたらそんな悪夢の連鎖反応から身を守れるようになっているのではないか。
 掲示板サイトなどで、釣られる方が悪いという風潮ができつつあるのは、適応のひとつのあらわれだと思うし。

 ネットによって若者の心に闇が生まれるみたいに、世間でいわれることが多い。
 しかしそれは新しいものでもなんでもない。
 昔からどんな人間にも備わっているものだ。
 ただ、集団で一つの闇を共有すると、恐怖を媒介にしてそれは膨張する。
 インターネットは時として、それを強烈に促進するということだ。

 我々は、思っている以上にミもフタもない世界に生きている。
 それに気づいてしまうと、日常を暮らすことがしんどくなるから、無意識に気づかない技術を働かせている。
 感受性の強く正義感も強い人がそれに気づくと、悲惨だったりする。
 悪を憎むうち、知らぬ間に独善的になり、ついには自分も悪になってしまう。
 ミイラ取りがミイラになるようなものだ。

 人間は社会を形成して生きる動物だ。
 社会の仕組みはいわば、コンピューターのOSみたいなもので、所属する人間の行動規範の多くを決めている。
 人間が多くなればそれだけ社会は複雑になり、バグも多くなる。
 暴走もあるだろう。

 そうした負の部分を見つめ、なかったことにしないで、なおかつ飲み込まれない生き方。
 21世紀は、その生き方を見つけるための時代なんだろうか。
 …なんてことを考えること自体、20世紀的なんだろうか。