朝青龍引退

夕方まで仕事が忙しく、ニュースを見る暇もなく帰宅。
食事を済ませ、ネットのニュースを見る。
朝青龍引退の文字が目に飛び込んできた。
しばらくものを考えることができなかった。
親しい人の死を突然知らされたみたいだ。

記者会見の映像をニュースで見る。
薄々覚悟はしていたのか、ドルジは恬淡とした様子で『運命』という言葉を口にした。
相撲人生に悔いはないとも言った。
時々涙ぐんでいたが、人生の節目に感極まったもので、事件とは関係のないものに見えた。

ドルジの落ち着いた様子を見て、少しずつ混乱がおさまった。
そういう圧力があったとしても、最終的には彼が決めたことだ。
その意志を尊重すればいいだけだ。

それに、これ以上相撲協会に関わったとして、何の得があるだろう。
たぶんない。

逆に、ドルジがやめることで、大相撲協会が得るものはない。
そこにあるのは虚無だけだ。
虚無は人を遠ざける。
誰が好き好んで相撲取りになりたいと思うだろうか。

引退会見の後、スポーツ新聞系のニュースは、ドルジ引退の扱いに戸惑っている様子だった。
引退を惜しむ町の人の意見を引用したり。
かと思えば、やくみつるの談話を引用したり。
これまでやってきたことと変わりない。

サンスポもスポニチも日刊スポーツも、自ら批判するのではなく、批判する人の言葉を引用することで紙面を作ってきた。
記者の意図は、なかったかもしれない。
彼らは、世間が求めている記事を書いていただけかもしれない。

戦後の極東軍事裁判で、戦犯政治家達はことごとく、
「あの時はああする以外なかった」
という発言をしたのだという。
内田樹さんの『日本辺境論』に書いてあった。

システムが個人にそうすることを強いる空気。
日本においてそれが極めて強い影響を個人に及ぼす。
だから、太平洋戦争も連合赤軍やオウム真理教も、
「あの時はああする以外なかった」

朝青龍とK氏の間にどのようなことがあったのか。
なにゆえK氏はすぐに告訴しなかったのか。
示談金が支払われてからK氏が「暴行はなかった」と前言を覆したのはなぜか。
現場にかけつけた警官の見解はどうだったのか。
目撃者の証言が一つも報道されないのはどういうことか。
・・・山ほど疑問がある。

それらの疑問にまとめて答える魔法の言葉が、
「暴力はいけない」

「事件の夜、本当はなにがあったんだ?」
「暴力はいけない」
「被害者はどういう人なんだ?」
「暴力はいけない」
「第三者はいなかったのか?」
「暴力はいけない」
以下、延々と続く。

テレビを消し、走りに行く。
夜遅かったので、ペースを早めにして5キロ。
走りながら考えてみたが無理だった。
思考が同じ所をぐるぐるめぐるだけだった。