日本映画

『葉桜の季節に君を想うということ』読了。
小説というスタイルでないと成り立たない叙述トリック。
まんまと騙されたという感覚が、悪いものではなく、読後感は良かった。
そういえば筒井康隆『ロートレック荘事件』も、叙述トリックものだった。

映画などの他ジャンルで表現ができないのは、欠点だろうか?
逆に、映画や演劇でしか成り立たないトリックというのもあるだろう。

次回作の構成を考える。
現在と過去のエピソードが交互に展開するスタイル。
場所は同じ。
集まりの名称も同じ。
ついでに登場人物の名前も同じ。
つまり、その集まりでは、その名前で呼び合うルールになっていて、30年前も現在も、人は違っても名前は同じと言うこと。
現在と過去が交互に展開することで、その場にいないある人間の物語が、うわさ話から語られていく。
どうやら、何かの事件に関わることらしく、そのことが現在と過去を結びつけている。

大ざっぱだが、その構成で、7人の出番が交互に展開する会話劇にする。
少人数のシーンではなく、7人出ずっぱりみたいな。

夕方、『風立ちぬ』の上映館を調べる。
大泉の「T・ジョイ大泉」でレイトショーをやっていた。
23時35分の回を、座席指定で予約する。
良い席だったし、値段も1200円と安かった。

仮眠をとり、夜10時、自転車で大泉へ。
東映撮影所のあたり。
いつもジョギングする時に通るが、自転車で行く方が疲れる。

ライトアップされた建物の周りを少しだけ散策し、中に入り自販機でコーヒーを買って飲む。
チケットを購入し、ロビーで前の回終了を待つ。
レイトショーはカップルが多く、家族連れは少なかった。

席はかなり見やすかった。
リラックスできる体勢で、画面がすべて視野に入った。

2時間ちょっとの上映時間だった。
ネタバレにならぬ範囲で感想を書いてみる。

ゼロ戦の設計者を主人公にしたにもかかわらず、政治的なメッセージは皆無だった。
描かれていたのは、作りたいものを作り守りたいものを守ろうとする情熱で、そこにはロマンがあった。
そのあり方は、たとえばラピュタに見られたような冒険ロマンとは違い、宮崎さん本人が封印してきた、本人のロマンチシズムと重なるところがあったと思う。
自分はアニメ監督というより、シナリオ作家兼演出家としての宮崎さんが好きなのだが、今回の映画は、宮崎駿の純粋に技倆的な意味でのシナリオと演出を存分に堪能できる作品だった。
登場人物の挙措動作は、黄金時代の日本映画でないと見られない。
あの動きが出来る役者をキャスティングした映画は、現時点では絶対に撮れない。
内容は、きれいごとだ。
きれいごとを、最高のテクニックを駆使して、きれいにきれいに撮った。
だから、きれいごとという言葉は、批判にならないと思う。
汚いシーンがあれば批判もあろうが、見る限り、全編きれいだった。
声優さんが皆、本当に素晴らしい声の芝居をしていた。
素晴らしい日本映画を見終わった時と同じ感覚があった。
今井正とか、成瀬巳喜男映画を見た後のような。
日本映画の名作と思えば、庵野さんの声は、映画会社のニューフェイス俳優のごとく耳に響き、100パーセント気にならなかった。
むしろ庵野さんの声が、日本映画らしさをよりいっそう強めていた。
ああいう、棒読みの主演がいて、脇をしっかりした新劇の役者が固める。
それが、いい。

終演は深夜の2時近かった。
ツイッターやブログなどで、誰かの感想を目にする前に見てしまいたかったから、初日に見られて満足だった。
感想ツイートをしようか迷うが、最小限のことのみつぶやく。
まだ見ていない人もいるし。
そういう意味ではこのブログも同じだが。