使っている弁当箱の幅と深さを包丁で測り、それに合わせてとんかつを切ったら、丁度四切になった。
詰めやすかった。
今まで、詰めやすさとかを考えたことがなかった。
弁当を用意する目的が、節約、だったからだろう。
節約が目的だと、物事は続かないのではないか?
節約そのものが面白いという人ならともかく。
去年の秋から暮れにかけて、自炊生活をほとんどしなくなっていた。
芝居作りが忙しかったからだろう。
おそらく「作る」という行為が脳内に占める割り当てが決まっており、それが芝居で占められていると、自炊が入るすき間がなくなってしまうのだ。
8時半から仕事。
入力確認作業の手伝いをする。
ネットで案件を調べ、コピペするだけ。
そいつを済ませてから、改修作業に戻る。
午後も改修の続き。
今月は当分それになりそう。
三年前と同じだ。
なるほど。今のシステムは三年前の2月に作ったのか。
日記はこういう時に役に立つ。
夕方、実家へ。
おかずは牛肉と玉ねぎの炒め物だった。
「あんたが食べたいってメールくれたから」
と母に言われる。
「いつ?」
「去年」
メールしたのは去年の夏だ。
半年も延々と食べたいと思っているはずはないが、実家では珍しいおかずだったので、文句を言わずに食べた。
オルハン・パムク『雪』読了。
カルチャーギャップを感じるために読んだわけではないが、読み終わって感じるのはカルチャーギャップだった。
世俗主義の国家でイスラム教徒として生きることは、共和国建国から80年経っても、個人の中に葛藤を生む要因となっている。
世俗主義の向こうには、西欧みたいな国という理想像があり、西欧コンプレックスは日本より屈折している。
建国の父アタテュルクは、今でも犯すべからざる権威で、世俗主義はアタテュルク主義ゆえに守り続けねばならない。
世俗主義が人を満遍なく幸せにしているわけではない。
では不幸な人々がイスラム主義に回帰するのかといえば、必ずしもそうではない。
主人公である詩人のKaは、世俗主義とムスリムであることの間を揺れ動き、無神論者を装ったかと思えば神を礼賛し、心の底ではおのれの幸せのみを願っている。
自分勝手のように見える時もあるのだが、求める幸せのささやかさに胸を衝かれた。
女性への対し方は不器用で、思い詰めた少年のようだ。
その不器用さは、巨大な主義と主義が形作るパズルの中で、小さなピースを割り当てられた個人主義が、居場所を確保しようとしているみたいだった。
それを人は笑えようか?
笑えようか、なんて書くこと自体傲慢ではないか?