8時20分に起きた。頭がぼーっとしていた。外は雨じゃないかと思い、スマホで天気予報を見た。予報は雨だった。しかし雨音は聞こえなかった。小雨なのかもしれないと思ったが、雨ならば早めに出ないといけなかった。
そう思いながら、松本大洋「花男」を本棚から取り出して読んだ。忙しいのに何してるんだ。
でも、ほんのちょっとしか読まなかったのに、印象は強烈だった。昔読んだ時よりも、絵が目に突き刺さり、脳裏に熱く焼き付くような感じがした。夜、家に帰ったら読み返そうと思った。
着替えると、自転車でいつも出かける時刻になっていた。外に出ると、雨はごくわずかしか降っていなかった。降ってないも同じだと思ったので、自転車に乗った。
昼、「山田屋」へ行き、タンメンを食べた。塩味スープにキャベツ炒めがのった、オールド・ファッションドなタンメンだった。
食べ終わり、車椅子で店に顔を出している、老店主のじいさまに聞こえるように、ごちそうさまでした、と言った。この人は、ろれつの回らない声で「ありがとうございました」と言うだけのために、お昼どきはお店にいる。死ぬまでラーメン屋でありたいという願いを、家族がサポートしているのだろうか。
夕方、雨が降っていた。電車で帰ろうかと思ったが、土砂降りではなかったので濡れて帰ろうと思い、自転車に乗った。
6時半帰宅、すぐに風呂をわかした。
筒井康隆『夢の木坂分岐点』を取り出して、パラパラめくるつもりで読んでいたら、じっくりと100ページ以上読んでしまった。何度も再読した本であるが、今回は、これまでになく、描写が頭の中でしっかりと映像化されるのがわかった。だからこそ、読み始めてから止まらなくなったのだった。
この作品は、外国語に翻訳するのが不可能だと思う。
小畑重則がいつの間にか大畑重則になり、重則が重昭に、大畑が大村にと、名字や名前が微妙に変化すると同時に、主人公の境遇も変わっていく面白さは、漢字ゆえに変わっても一瞬わからないという錯覚あってのものだと思う。
初めて読んだ時は、小畑が大畑になっても、重則が重昭になっても気づかなかった。気づかせないように巧妙に書かれているのだ。しかし、小畑重則は娘に嫌われているはずなのに、次の章で「いい娘になったものだ」と述懐しているところで、ん? と思った。見ると、主人公の名前がいつの間にか小畑重則から大畑重昭になっていた。衝撃を受けた。この本では、何が起こっているのだ、と思い、ページを少し戻って読み直した。主人公の名前が変わる瞬間を見届けようと思って読み続けると、不思議と、夢を見ている時に把握している現実感覚に近いものを感じた。今いる世界から別の世界に、いつの間にか移動するのを、覚醒した意識で俯瞰しつつ、同時に読者の自分も浮遊しながらついていく感じだった。
人生において、読書で最大の衝撃を受けたのはこの時だった。
この作品は、映像化に向いているのかもしれないと思った。なぜなら、主人公やその他の人物の見た目に関しては、変化している様子がないため、同じ役者が演じることが可能である。同じ人なのに別の人になったという感じを表現することができると思うのだ。
しかし、未来永劫、そういう企画は出ないたろうなあとも思う。アニメ化も無理かなあ。コミカライズでもいいのだけど。