ねじまき鳥第3部、メタファーとしての死に方

5時に起きた。寝てすぐに起きたような感じがした。熟睡していたからなのか、その逆なのかわからなかった。
着替えて旧江戸川へ。薄暗かったが、東の空はほんの少し明るくなっていた。
満潮から下げ始める時刻で、水面にはボイルがあった。マリブ78をつけて投げてみたが、アタリはなかった。エリア10に変えても、バイブレーションに変えても同じだった。
ボイルは途切れなかったので、その場所で釣りを続けた。そのうち、日が上ると、ボイルがなくなってきた。流れがだんだん早くなってきたところで、6時半になったので、時間切れにした。
一度もアタリがなかったのは、魚がいなかったというよりは、ルアーの選択ミス、キャスティング精度の低さ、リトリーブの不確実さ、それらが複合した結果ではないかと思った。要するに下手なのだ。

朝飯を食べながら、そろそろ秋のシーバスシーズンか終わるということを考えた。いつかは釣れると思って通っているが、寒くなったらおそらく釣ることは難しくなってくるだろう。
とにかく、釣り上げなければと思う。そのためには執念深く通い続けるしかない。

早起きしたせいか、昼の間ずっと眠かった。昨夜の眠りはやはり浅かったのかもしれない。

夜、「たまむすび」を聞きながら、生牡蠣とししゃもとおでんを食べた。生牡蠣を洗うために買った大根の残りをすべてだし汁で温め、おでんの主役にした。ししゃもは、フライパンで焼いて食べた。

『ねじ巻き鳥クロニクル』第3部読了。
ナツメグの夫は、「役割」として、大衆がそう思いたがっている自分のキャラクターを演じるようになった。その点は、テレビに出るようになってからのワタヤノボルと似ている。ワタヤノボルは、演じると同時に、そう思いたがる人々の意識に刺激を与え、そこから良くないものを引きずりだそうとしている。ナツメグの夫は、おそらくそこまでのことはしなかったはずだが、「良くないもの」を成り立たせている力によって、殺されることになった。
彼は極めて猟奇的なやり方で殺されたのだが、それは、メタファーとしての死に方だったと思う。酷い殺され方は、彼が近づいていたところは危険であることを表している。
笠原メイによる茶碗蒸しのたとえは、作品鑑賞ガイドになっている。世界のものごとの成り立ちを、何かの喩えなのだというふうに受け入れれば、この作品は読みやすくなりますよ、というように。
牛河の饒舌は不思議な魅力がある。本題に入らず、関係ない話をしたり、話が飛んだりする感じは、大変失礼ながら春樹氏本人の喋りにどこか通じるものがある。いや、春樹氏が関係ない話をしてるとか、話が飛んでいるとかいうのではなく、話をするリズム感が、なんとなく似ているように思ったのだ。「村上Radio」を聞いた後だから、特にそう感じるのかもしれない。
ナツメグの能力は、物語の機能を具体的に置き換えた喩えだろう。人を損なう暗い力を、物語というものは吸収してくれる。それによって、人はつかの間、暗い力から自由になりうる、というように。

久世光彦『一九三四年冬 乱歩』読み始める。

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