忘れるための背徳

7時起き。
朝飯に、ご飯、納豆、カブのぬか漬け、大根おろし、味噌汁。こういう食事ができると、ちょっとホッとする。

午前中、背筋運動を少しやる。

昼、昨日の鍋の残りにラーメンを入れて食べる。

1時から走りに行く。
まず、ママチャリで阿佐ヶ谷のサイクルスポットへ。前のタイヤがパンクしていたので修理に出す。
そこから中杉通りを北へ走る。

鷺ノ宮の踏切を渡り、歩道を走っていると、道の真ん中にネズミ色の物体が落ちていた。何だろうと思って近づくとネズミの死骸だった。思わず「うわあ」と声を出した。「道理で、ネズミ色過ぎると思ったぜ」とブツブツいいながら、新青梅街道を渡り、西武池袋線のガードをくぐり、豊島園の横を通り、早宮から環八を横断し、川越街道を渡り、東上線の踏切を渡り、新大宮バイパス沿いを北上し、沖山遺跡まで走った。

そこから同じコースを戻ろうとしたが、早宮のあたりで道を間違えた。元のコースに戻り、中杉通りでネズミの死骸があったのとは反対側の歩道を走り、鷺ノ宮の踏切を渡ったあたりでへたってきた。心拍数が急に上がったのでそうだとわかった。ただ、そこから阿佐ヶ谷まではそれほど距離もなかったので、フードやドリンクの補給はせずそのまま走った。

サイクルスポットで自転車を受け取り、3時50分帰宅。シャワーを浴び、ハニートーストを食べ、キョリ則で走った距離を調べた。21キロだった。

4時半過ぎに家を出る。営団地下鉄で中野坂上へ。桂三度が世界のナベアツだった頃のアタリネタみたいな顔をしながら「えっ? 東京メトロ? なにそれー?」と言いながら大江戸線に乗り換え、春日へ。

5時半、本読み会参加。

今日のテキストは寺山修司だった。「毛皮のマリー」「疫病流行記」を読んだ。

「毛皮のマリー」は、大学時代に後輩がやったのを強烈に覚えている。学校の敷地にテントを建て、別の芝居との二本立てにしていた。主演のO場くんがテント仕込みの最中、垂木から飛び出た釘を踏み抜いて破傷風寸前になった。下男のN口君はスキンヘッドになって白粉まみれのままコンビニにシャンプーを買いにいき、H野くんは舞台上全裸で浴槽から転がり出た。その後に見たどんなバージョンの「毛皮のマリー」よりも、この時のが一番印象が強く残っている。

今日の読みは、長距離を走った後だったので疲労感があり、頭の中であれこれ考えないで読めた。そのためか、言葉が脳の中ですぐさま絵になっていき、その美しさに幻惑された。

この作品が演じられている間は、道義や倫理や常識を一切忘れるための時間なのかもしれない。むしろ、それらのことを見る者に忘れさせるために、ことさら破廉恥に隠微に描かれているような気がした。問題は、見に来た人がそういった娑婆の了見を忘れたいのかそうでないか、だと思う。

「疫病流行記」は、もし疫病が流行したら? というIFものではあるが、その体裁を借りて、やはり道義や倫理や常識を見る者に忘れさせるために作られたアジテーションであるように感じた。劇ではなく、檄だった。活字を黙読しただけではわからない魅力が、声に出すことで花開いた。演劇から遠い位置にいる人の方が、寺山修司の戯曲の良し悪しを素直に判断できるのではないか。演劇人だったら、どうやって演出するか、または演じるかということを考えずにいられないため、この作品は面白いのだろうかという疑惑に駆られ、自由に読めないような気がする。

買い物をして10時帰宅。
夕食に、イカフライ、唐揚げを食べた。

映画「ヒポクラテスたち」見る。
伊藤蘭がキャンディーズ解散後、女優となって最初に出演した映画。同時期に「男はつらいよ」に出ており、翌年は夢の遊眠社の舞台に出ていた。遊眠社は当時まだ東大の学生劇団で、ラン様は劇団員と交代で稽古場のモップ掃除とかをジャージ姿でやっておられたらしい。
そういえば水谷豊さんは「青春の殺人者」チケット手売りを手伝ったそうだし、趣里さんは岩松了の千本ノックみたいな返し稽古を受けて演技修行したそうだ。水谷家の方々は、みなさんほんとに、ちゃんとしていなさる。

手塚先生が小児科医役で出ていた。芝居が自然なのが笑えた。

原田芳雄が外科医役で出てきた。日焼けした顔に口ひげ姿。強めの存在感でぐいぐいきた。場面は短かったが、ときめいた。

主演の古尾谷雅人は、この頃、日本映画界期待の新人俳優だったのだなあと思う。

出演者全員がやたらにタバコを吸っていた。1980年作品。まだ時代は70年代の空気が色濃く残っていた。