謳歌しなくていい

『魚民』の閉店時間は2時だった。5時まで時間をつぶそうとしたが、空いている店は当然なかった。
ビールの他、レモンサワー、コークハイ、日本酒を飲んでいた。酔い覚ましのコーヒーと、なにか甘いものが食べたかった。

県道沿いのコンビニまで歩いた。道は真っ暗だった。コンビニでシュークリームとコーヒーを買った。どこかベンチでもあれば座って食べられると思い、そのあたりをぐるぐる歩いた。関越自動車道沿いを歩いて再び県道に戻ってくると、バス亭の待合室に使われている小さい小屋があり、中に木のベンチがあった。明かりがなかったが、もののけ、もしくは野生動物がいる気配はなかったので、中に入って暗闇の中でシュークリームを食べコーヒーを飲んだ。

そのまま、ベンチで2時間ほど休んだ。雨が降ってもそこならしのげる。怪談が苦手な人でなければいい場所だった。

4時半に小屋を出て駅へ。入り口は5時20分頃にあくとのことだった。始発待ちの客が何人かいた。

駅前のベンチに座り、スマホでVBAの問題集を解いて時間をつぶした。

5時20分に入り口があいた。改札は5時40分に開くとのことだった。おにぎりとサンドイッチを買ってベンチで待った。

6時過ぎの始発新幹線に乗った。グリーン車。越後湯沢始発なので自由席でも座れそうだった。しかしチケットを予約する時にそんなことはわからなかったし、予約はグリーン車しかできなかったので、特に気にしなかった。若干席も広いし。

大宮まで新幹線に乗り、上野東京ラインに乗り換えて上野へ。地下鉄で西葛西へ。8時半だった。
ファミマでコーヒーと文具のカッターナイフを買い、コーヒーをイートインで飲んで外に出ると大雨だった。雨雲がピンポイントで江戸川区南部を通りかかってた。リュックからレインスーツを出して上だけ着たが、少し待てば雨雲は通り過ぎそうだったので10分ほど待った。すると雨の勢いが弱まったので、レインスーツを着たまま実家に向かった。途中、ドラッグストアで湿潤治療用のパッドを買った。

9時半実家帰宅。シャワーを浴び、4時間ほど寝た。

2時過ぎ起き。昼飯にいなり寿司食べる。

ハゼ釣りにいつでも行けるよう、仕掛けを買っておこうと思い、先日タイヤを交換したクロスバイクの試運転も兼ねて、東陽町の上州屋に出かけた。タイヤ交換の効果は結構大きかった。ギアは7段あるのだが、最速の7段にしてもこれまでの5段や6段ほどの軽さになっていた。おかげで体感的に、スピードが出せなくなったような気もしてしまった。実際は逆なのだが。

針、天秤、おもりを買った。予備も含めて買ったので1600円にもなってしまった。

帰りに、散策ついでに砂町銀座に寄った。わりと近くに住んでいるのに、これまで行ったことがなかった。
狭い商店街をかなりゆっくり走った。コロッケを売る店が多かった。

4時過ぎ帰宅。

夕方、夕飯代わりに、越後湯沢駅で買ってきた白玉粉と蜜粉で、白玉クリームあんみつを作った。白玉は茹で時間2分と書いてあったのでその通りに茹でたが、食べた感じはやや固めだった。もう少し長く茹でた方が良かったと思った。

実家のDVDデッキがまた録画ができなくなったと母が言うので見てみた。アンテナの接触不良が原因だった。元のアンテナケーブルから衛星と地デジを分波するのだが、地デジ部分のプラグが接触不良を起こしていた。
つなぎ直してチャンネル設定をやり直すと再び録画ができるようになった。

8時に実家を出る。9時半帰宅。

フジロックの開催についての批判的意見をいくつか読む。オリンピック開催に反対した人がフジロックに参加していることを批判する文章を読んで、なるほどと思った。
批判の論旨は様々だった。感情的な批判ほど考えさせられることが多かった。その批判に対して、フジロックに参加し擁護する側の人々が感情的に反発し言葉で反論すると、結果、悪意のぶつかり合いとなる。そこへ行かないようにしなくてはいけない。

批判者がやり玉に挙げる、フジロック参加者のツイートやインスタには、どこか共通点がある。それはフジロックに限ったことではないが、人生を謳歌する感じがみなぎっていることだ。

オレ個人の心の動きしかデータがないが、謳歌とは相対的な基準で言語化した自らの幸福を社会に発信する行為であるという定義が心に浮かんだ。体験したことの素晴らしさと幸福感を謳歌という形式で表現すると、何かと比較してオレはプラス100だぜ、と言っているみたいに感じるのだ。

そして、見ている人は、その何かにされたように感じるのだ。

フジロックに『参戦』して、サイコーに幸せな気分を味わった人がそのことを伝える対象は、フジロックに『参戦』できなかった人々である。共に参戦し、ライブ中一緒に盛り上がっていた友達に読ませるためにSNSなんか発信しない。

そして、そこにいなかった人のうち、フジロックに好意的な人というのは、今回は特に、多くないはずである。好意的な人なら『参戦』しているし、好意的にも関わらず『参戦』できなかった人は、そういう発信を100パーセント素直に喜べないだろう。

現在は様々な催し事が中止となっており、オリンピックを見るのが楽しみでいた人も沢山いる。そんな時に『やっぱフジロックサイコー!』的な発言を、あっけらかんとフジロック参加者がすると、それは、イラッ、むかっ、とされても仕方がない。

かといって、そういう発言は慎むべき云々という文脈で『参戦』した人を批判すると、単なるコンプライアンスの問題として落とし込まれてしまう。そういうことでもないんじゃないかな。フジロックに限らず、この構造は昔からあったわけだし。

思うのは、謳歌の機能をみなさん、過大評価しているのではないか、ということだ。謳歌なんかしなくたって幸せ、という幸せの感じ方が、一番サイコーだし記憶に残ると思うのだが、つい、謳歌してしまう。子供は嬉しいとき、裏声で悲鳴を出すことがあるが、それに似ている。

オレは、大変心苦しいことに、フジロックは楽しかったけど、どちらかというと粛然とする時間の方が長かったし、帰宅するまでいつになく消毒その他に気をつけていた。簡単に「サイコー!」とは言えない。

昨日、FIELD OF HEAVENで青葉市子が歌っている時、ステージがよく見えるわけではない離れた位置の木の根元で、体を抱くようにしてうずくまり、目をつむって一心に聞き入る女の子がいた。彼女はたぶんその時間、完全無欠の幸福に包まれていただろう。でもそのことを特に誰かに『発信』などしなかったと思うのだ。その完全さがあったら、する必要ないものな。

批判記事の中には、世間を炎上させて記事が売れるようにしようというものもあった。『記者は見た』とか書いていながら、いや、コイツちゃんと見てねえな、というルポもどきとかあった。その記事を読むと、酒とボディタッチと反社会行為による快楽集団の宴みたいに描かれていた。おじいちゃんおばあちゃんに読ませると心配だ。孫が悪魔教団に入ったと思うかもしれない。

音楽にかかわらず、舞台、スポーツ、イベント、日本中のありとあらゆるライブパフォーマンスに関わる人々は、今回の結果に注目しているはずだ。感染者は出たのか、医療期間の負担はどうであったか。観客のマナーはどうであったか。

だから、今回の参加者は、みなさん本当に気をつけて、密にならないようにしていたよ。ほんとは酒飲んで気分上げて盛り上がったり、気持ち悪くなったら寝っ転がってそのまま日に焼けちゃったりして、ワイワイしたかっだろうに。酒なし、そして歓声さえなしで、拍手だけで参加していたよ。ライブで歓声を上げられないストレスがどれほどのものか。でも、参加することで、途切れなくさせる『流れ』がある。それはフジロックだけじゃない。たとえば来年のワールドカップ。観客を入れてやるにはどうするかを検討するとき、今回のフジロックのデータが参考として提供されると思うのだ。他にも。コミケとかだってそうだ。そうなると、いいと思う。

気をつけることについて、あれ以上は無理だと思う。帰りの上野東京ライン車内の激混みに戸惑いを覚えたほどだ。え? なぜ満員電車って批判されないの? と思ったな。