時の眺め方

3時過ぎに起きた。

オニオンスライスとトマトのサラダを、超早い朝飯として食べた。本当は昨日の夜食べようと思っていたのだ。

二度寝し、7時に起き、朝飯にフルーツグラノーラとミルクを食べた。

7時半に家を出る。自転車で中野。地下鉄で現場へ。

午前中、ヒマ。

昼、『糀家』で角煮丼。角煮入り中華丼という感じのメニューだった。

午後、ストーン氏ツールの作業をする。しかし、指定された条件ではデータが1件も取得出来ないことがわかったので中断した。

ぼんやりしながら、時間がいい感じに流れているのを感じた時、について考えた。

楽しいとかではなく、特に何かしているわけではなくても、流れている時間を「いい感じだなあ」と眺められる時がある。今年でいうと、1月に鹿児島に行った時、砂風呂に入ってから町の居酒屋で一杯やり、宿に向かって歩いている時がそうだった。

そういう時というのは、滅多にあるわけではない。去年は一回、一昨年は二回しかない。

何かをしている、または、何かをしようとしていると、そういう時はこない。かといって、何もしていない時にくるかというと、それも違う。

過去のケースを思い出していくと、その「時」に自分がしていることは、意識せず時間を眺めていることだとわかった。眺めるというのは、まるで目で眺めているかのように時間が流れるのを感じるということだ。旅行をしている時にそうなることが多い。それも移動の途中、何かの拍子にそうなる。

しかし、去年そうなったのは一回だけだった。普通の旅ではなく、旅ランニングの二日目に公園でランニングウェアを洗い、ベンチで干し、日影でコーラを飲んでいる時がその「時」だった。

これって、ヴィパッサナー瞑想に似てるんじゃないか? 昔、しんどい時期に試したことがあったけど、全然楽になれなかった。そういう、対処療法みたいなやり方ではダメなんだろう。時間を眺めていられる「時」だって、やろうと思ってやっているわけじゃなかったし。

でも、そういう状態があるんだ、ということを今日意識したわけだから、もしかすると日常の折々に、「時」をサーチする間ができてくるかもしれない。そしてもし、「時」の眺め方を見つけることができたら、機嫌がいい時間帯が増えるだろう。自分にとっても他人にとってもいいことだ。

夕方、雨の予報だったので中野からバスで帰るつもりでいたが、駅を出るとちょうどやんでいたので、自転車に乗る。ドラッグストアでどら焼き、水、コーラを買い、6時半過ぎに帰宅。少し濡れた。

ジャワーを浴び、ヤクルト中日戦をラジコで聞く。中日、1対2でリードしていた。満塁のチャンスになり、昨日聞きそびれたようなタイムリー場面を期待した。バッターは大島。しかし、惜しくもライトフライに終わった。

中日に勝ってもらうため、ラジコを消した。勝利の女神が、どうせオレなんかがラジコを聞いているのに気づくと、「愚劣な哺乳類のオスが聞いてるから、向こうのチーム応援するわ!」とかいってヤクルトを勝たせてしまうだろう。そうならないためには、ポイントポイントで聞いて、すぐラジコをオフにするのが、愛するドラゴンズのためにはいいのだ。

9時過ぎまで、AKIRAセーター編みと、インヴェンションの練習をした。9時半頃、さてドラゴンズはどうなったかなと思い、ネットで試合結果を調べると、勝っていた。良かった。オレが放送を聞かなかったおかげだ。これからも、試合が気になって仕方なくても、試合を見たり聞いたりするのを我慢して、みんなが「どらほー!」とかつぶやくような場面を、着実に見逃し続けていくよ。書いていて悲しくなってきた。ちょっと泣いてもいいだろうか?