類型的演技と退屈さ

朝、いつものように植木の水やりと、水耕栽培の溶液補給。

昼、自転車で『三晴食堂』へ。親子丼の大盛り食べる。迫力あるデカ盛りだった。1月に値上げしたが、それでも大盛りは850円なので、CPは極めて高い。カツカレー、カツ丼も同様。なくならないで欲しいお店だ。

夕方、下北沢へ。今週ずっと、うどん食べたさが持続しているので、夕食に『丸亀製麺』できつねうどん大盛りと、かき揚げを食べた。

7時半、なべさん出演の舞台観劇。シチュエーションコメディとSFが混じった作品だった。タイムループ設定が唐突に感じられた。

終演後、なべさんと挨拶する。知恵と優子ちゃんが見に来ていた。

知恵は公演中、貧血を起こしてしまったらしく、途中で外に出て休んでいた。「久しぶり」と声をかけると「(オレの髪の毛が)茶髪ですか?」と言われた。そう見えたらしい。老化現象によるメラニン色素の減少によるものだろうが、難儀そうだったので細かい説明はせずにおいた。

優子ちゃんと、コロナ期は芝居ができなかったという雑談を少ししていると、雨が降ってきたので、そのまま別れ、駅構内へ。

雨雲レーダーを見ると、1時間くらい待てばやみそうだった。軽くひと飲みするかと思い、なべさんに連絡し、地下にある安酒場へ。なべさんはわりとすぐに来た。

ビールを飲み、感想を伝える。類型的演技について批判をすると、なべさんとしては、そういう演技はアリだと思っているとのことだった。新喜劇のお約束芝居などがその範疇に入ると言われ、なるほどと思ったが、オレが言わんとしている対象とはちょっと違ったので、その場で補足した。

というより、実は類型的演技がいけないというのではなく、まず、つまらない演技があって、さらにそれが類型的であるというパターンが多い、ということだと思う。類型的ではないのにつまらない演技というのももちろんある。この場合の『つまらない』とは、笑えないということではない。見ていて退屈、という演技だ。

退屈さを感じる要因は色々あるだろうが、たとえばその演技によって表現されているものが少ないか、あるいは、何も表現されていない場合に、退屈さを感じることがある。「おはよう」と言って寝室から出てくるだけの演技でも、退屈だなあと思う俳優はいる。その逆もいる。しかし、日常の何気ない動作なので、ことさら面白くなくてもいいのだ。なのに、そのセリフを言いながら寝室から出てくるその役者が、日常でそれをしている人よりもつまらなく退屈に見えるのはなぜなのか、だろう。今回の芝居でそういう場面があったわけではないが。

しかし、「おはよう」と言って出てくる時に、欠伸や、目をこすったりする所作をテキトーにやっていると、とたんにつまらなくなる。そして、その所作が類型的なものに見えてくる。先にくるのは『つまらない』なのだ。かといって、本域の欠伸をすればいいというものでもない。

たぶん、なにかしないと間がもたないという感覚に負けて、「おはよう」から連想される所作を、無意識にやってしまうことが、人としてつまらないのだ。人としてつまらないことを舞台上でやってしまうから、その演技がつまらなくなるのだ。

なべさんの言った、お約束芝居における類型的芝居の場合は、その動作が次の笑いに対する『フリ』になっていたり、そうでなくてもあらゆる動作が喜劇設定の説明になっているから、無駄ではないし、むしろ、全員が類型的芝居をし合うことによって、舞台のグルーヴ感が出るのでから、むしろ、ちゃんとそういう芝居をみんなでしないといけけない。

小一時間ほど飲んで店を出た。雨はやんでいた。駅でなべさんと別れる。別れ際、「とにかく、楽しそうななべさんが見たい」と伝えた。おそらくそれに尽きる。ここ最近、楽しそうに芝居をしている姿を見ていない。

ファミマでスナック菓子と缶サワーを買い、11時前帰宅。追い飲みして、2時就寝。