5時には起きていた。
起き上がったのではなく、寝ている状態で目が覚め、考え事をしていた。
考え事をする前はたぶん夢を見ていた。
夢の中で考え事をしていて、いつの間にか目が覚め、考え事を続けていたのだ。
(そういえば起きてるな)
と気づき、スマホの時計を見ると5時過ぎだった。
寝たのが3時前だから、睡眠時間は3時間くらいしかない。
6時過ぎにコンビニへ。
外は大雨だった。
サッポロ一番の味噌ラーメンを買う。
ご飯を炊き、卵かけごはん。
それからサッポロ一番とライス。
炭水化物ばかり食べる。
8時に家を出て仕事へ。
新宿から歩く。
40分かかった。
大雨のため、鉄道の運行に影響が出ていた。
11時頃雨は上がり、青空が見えた。
昼、久しぶりに「西湖春」へ。
チャーハン食べる。
北方健三『三国志』13巻読了。
諸葛亮が馬超の息子に鏡を贈る場面が良かった。
呂布、劉備、張飛、曹操、孫策、周瑜、馬超、諸葛亮、陸遜、司馬懿。
全巻読み終えて、印象に残った武将はこのあたり。
中でも、呂布、張飛、馬超は、北方三国志の象徴的存在だったと思う。
従来の三国志における馬超は、蜀の将軍となるまでは華々しい活躍をするのにその後ほとんど登場せず、いつの間にか死んでいることになっていた。
北方版ではそこをうまく利用し、独自のフィクションを作り上げていた。
みんなが、思い通りの三国志を新しく書けばいいんじゃないかと思った。
定時にあがる。
スバルビルのJTBへ行き、ぷらっとこだまのチケットを購入。
金券ショップよりもこちらの方が安い。
日暮里へ。
「一由そば」という立ち食いそばで、うどんとゲソ寿司食べる。
いつも下りる南口ではなく、北側にある東口にある店。
24時間やっているらしい。
ゲソ寿司は一個80円。
天かすとゲソと酢飯を押し固めたようなもので、タレで味つけされている。
不思議に美味しい。
歩いて三河島へ。
ARTCAFE百舌にて「楽屋」観劇。
百合香さん出演。
百合香さんはCとDのどちらかをやるだろうと思っていた。
Cだった。納得。
今年のマグ不足でやった「贅沢な肉」では、百合香さんがチェーホフの「かもめ」を練習する場面を作った。
大女優を母に持つニートのトレープレフくんが、スターに憧れる女優の卵であるニーナちゃんに書き下ろした芝居のセリフだ。
「人も、ライオンも、鷲も、雷鳥も、角を生やした鹿も、鵞鳥も、蜘蛛も…」
そのセリフを今日、百合香さんが喋るのを聞くと、どうしても笑いを抑えられなかった。
笑える場面ではもちろんない。
AとBがはじめから幽霊であるというのがわかりように演出されていた。
心を病んだ女優Dが入ってきてから、鏡前でのCのモノローグまでが、一番面白く好きなところだ。
こういう戯曲があって、うらやましいなあ女優は、と思う。
百合香さんのモノローグはすごくよかった。
オレが女だったら嫉妬していただろう。
技術的なものではなく、なんであたしがその役やってないの! というふうに。
終演後、百合香さんに挨拶。
「笑ってましたよね?」
と言われる。
あの台詞のところだ。
「仕方ないですよ」
手で口を押さえ、声は出さなかったのだが、百合香さんからは笑いをこらえるオレの顔が丸見えだったようだ。
西日暮里まで歩く。
千代田線で帰宅。
自宅の最寄り駅が地下鉄の駅になると、都内のどこかから帰る時、地下鉄を探すようになるのだなと実感した。
実家にいた頃はそうだった。
東京生まれの東京育ちのくせに、子供の頃から成人するまでJRに乗った回数は少ない。
ほとんど地下鉄だった。
高校の時なんて、江戸川区をほとんど出なかった。
なんだったんだろうアレは?
車中、『都市の舞台俳優たち』読む。
10時帰宅。
ハヤシライス食べる。
『都市の舞台俳優たち』読了。
著者は、ある劇団の役者一人一人にかなり突っ込んだことを質問し続けた。
どんな内容だったのかはわからないが、芝居だけでなく、収入や恋人のこと、親との関係や将来のことなど、個人的な事柄を含んでいたようだ。
継続的に質問活動を続けることで、1999年の時点、2002年の時点、2005年の時点というふうに、その役者が劇団内でどういう位置にあり、社会的にどういう立場にあり、暮らしはどうであったのかがわかる。
その取材データが背景にある本書は評論である。
文体は意図的に読みづらくされている。
あるいは意図的に、読みづらい文体を選択している。
役者達の発言がたくさん引用されている。
妙に生々しく、その部分だけはルポルタージュのようだった。
都市においては、下位文化の非通念性が高まる、ということを、フィッシャーという人が唱えていたそうだ。
下位文化は、雑談で出てくる単語レベルの「サブカルチャー」と置き換えたい。
非通念性とは、unconventionalityの訳語のようだ。
因襲にとらわれないこと、掟破り、とか、そういう意味か。
で、この本の場合、都市とは東京を意味している。
小劇場はサブカルの範疇にある。
「東京で小劇場の役者をやっている奴は世間一般の常識とはちょっとズレている」
身も蓋もない言い方だが、豊富な資料(アンケートによる聞き込み調査)によって、フィッシャー理論の再検証をしたのが本書である、ということになるか。
この本を読んで小劇場をやっている人間は、楽しい気分にはならないだろうが、そもそも批判や用語をする目的の本ではないだろう。
ただ、仮名で書かれた役者達が本書を読んだら、人間的な怒りがあってもおかしくはない。
どうもそのあたり、著者は難しい言い回しで、血が通った人間の感情から一歩逃げている気がする。
すごく面白く読んだけど、評論ではなくルポルタージュを読みたかった。