「罠」観劇

7時半起き。

昨日の夜、炊飯器を保温モードにして米と水を入れておいたら、今朝お粥になっていた。
炊いた時よりも柔らかかった。

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日付の非表示がようやくできた。
過去公演ページをギャラリー表示し、写真をクリックすると詳細ページに飛ぶようにする。

昼、サッポロ一番塩ラーメン食べる。

午後、Wordpress作業の続き。
トップページをどうすればいいのか、イメージがまるで浮かばない。

6時に家を出る。
池袋へ。
シアターKASSAIにて、知恵ちゃん客演の舞台観劇。
演目は、ロベール・トマの「罠」

どんでん返しミステリーで、脚本は間違いなく面白い。
そういう本をやる時、役者としては、やりように苦心したぶんに見合う手応えを感じるのが難しい。
いい声を出すよう心がけるだけでも、物語が面白いから、満足するお客さんは多いだろう。

だがそれでは役者は不満だ。

かといって役を大胆に解釈して演じたら、戯曲のストレートな面白さがかえって伝わりにくくなり、やってる本人たちは良くても見るお客さんは白ける可能性がある。

普段、小劇場で仲間のオリジナル作品をやっていると、作品が不完全である時ほど、役者としてのやりようが増えるということがある。
もちろん限度を超えてつまらない本は論外だが、演じ方によって面白さががらりと変わる本は、役者にとって自由度が高い。

手応えを感じるポイントを、作品世界の住人になることに置けば、やりようについて迷うことはなくなる。
その場合、根幹を成す演技論は、スタニスラフスキーシステムのリアリズムに近づいていくんじゃないかと思う。
演じる対象が人間である以上、役のデッサンはそれでできるし、演じる喜びをそこに置けば、方法論で迷うことはない。

が、現在の日本に暮らす小劇場舞台俳優の「でもね…」が、雑草のように生えてくる。

「でもね、夢がないんだ」
「でもね、パッションを感じないんだ」
「でもね、笑えないんだ」
「でもね、興奮しないんだ」

「でもね」の後に続くのは、小劇場俳優の自我を成立させるための何かかもしれない。
役をデッサンすることだけでは足りないと感じるから、欠落を埋めるものを探し、色々なもので埋めてはまた掘り返し、再び探す。

オレ自身の小劇場俳優としてのあり方は、現時点ではそういうことの繰り返しになっている。

良くできた台本、さらに、翻訳物を演じるという機会は、小劇場役者としての自分を見つめ直すという意味で、知恵ちゃんにとって最適だったんじゃないかと思う。

彼女が演じたのはエリザベートだった。
一幕初めのうちは、観客をも欺くが、幕が終わる頃にちょっとネタばらしがある。
彼女は詐欺師であるという印象を与えて二幕が始まる。
そこから先の彼女は、どう演じても詐欺師と思われる。
だから演技の自由度が増す。
日常場面において「演技しても」いいのだ。

だから難しいのはその前の、一幕で、妻と言い張り続けるところの芝居だったろう。
二幕のエリザベートとは別人だと思って、役を作りこんでいかなければならない。

知恵ちゃんは、夫を気遣うノーマルな人妻という感じで役を造形していた。
正攻法で作ったなと思った。

やりようとしては、夫との親密さをスキンシップで表現してみるとか、ケンカして飛び出したという設定を性格描写の材料にするとか、色々な方法があったろう。
どれが正解というわけでは、もちろんない。
重要なのは、演出家と役のイメージを共有し、自分の意志で決めたという手応えを感じつつ、一幕のエリザベートを作ることだったろう。

だから、今回の演技の出来について、本当の点数は彼女が感じたままのはずだ。
こういうふうにやればよかったという意見は、選択肢を増やす補助になりこそすれ、点数にはならない。

二幕から先の知恵ちゃんは、ラストのどんでん返しまで、詐欺師の悪女として演じていた。
どのように演じてもそう見えてしまう戯曲的構造があるので、のびのびとしていた。
役者としていい芝居をしたのは二幕以降だったと、つい結論してしまいそうになるが、そりゃ違う。
やる意味があったのは、一幕だった。
無から何かを作ろうという労苦を感じたのはそこだった。

終演後、知恵ちゃんに、簡単に意見を言う。
色々ありました、というような顔をしていたが、迷って煮詰まったという感じではなかったのでほっとした。

面白かった。
良くできた戯曲の、素材の良さを殺さずに調理した、いい作品だった。
昔の、加藤謙一事務所の芝居を思い出した。

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