8時20分起き。
お腹が張っていた。先週の月曜以来走っておらず、その日以降に食べたものがすべてたまっているみたいな感覚がある。ドカ食いしたわけでもないんだが。
昼、山田屋でタンメンを食べた。先週金曜もここでタンメンを食べた。その時、昔ながらのタンメンを出す店は減ったなあと思ったのだったが、「昔ながらのタンメンを出す店」という言葉が、連休中フラッシュバックみたいに脳内に再生され、今日はお腹が張っていたのに、朝からタンメンのことを想い続けていた。
山田屋へ行く前にGoogleでタンメンが食べられる店は近くにないか検索したら日高屋が結果に出てきたので、それならば山田屋の方がいいと思って再訪したのだった。
想いの強さは盛りの量に比例する。「タンメン」と注文した直後、口蓋と舌は理性の指揮下から離脱し、「大盛で」と、関東軍のごとく暴走した。
あれが食べたい、と思っている時にそれを食べれば、旨いに決まっている。旨いに決まっているという確信に近い期待が裏切られなければ、歓喜があって、再びそれが食べたいという想いに結実し、「タンメン食べたいタンメン食べたい」というマントラとなって、脳内に再生されるのだ。
夕方、帰宅する時、すでにタンメンを食べることを決めていた。鍋横方面へ行き、たまに行くことのある「尚チャンラーメン」に入った。
カウンターは埋まりかけていた。荷物は奥に置いてと奥さんに言われ、棚にリュックを置いた。来る客に常連が多いのは相変わらずで、マスターは「よお!」「どうよ!」など声をかけながら、中華鍋を振るっていた。
タンメンは、山田屋よりももやしが多かった。「タンメンウマイタンメンウマイ」と、新しいマントラを唱えながら、スープも半分以上飲み干した。
食べ終わり、歓喜と後悔相半ばした気分で、食器をカウンターの上にあげた。
「ありがとー。少しはお水飲んだ方がいいと思うんだよな。タンメン、塩分多いから」マスターが言った。
出されたお冷やをまったく飲んでいなかった。
7時過ぎ帰宅。風呂を掃除してお湯を張った。
7時半からジョギングをした。せねばなるまい。
八幡山の「キャスティング」まで片道5キロちょっとを走った。ルアーを見て、マリブ78を購入した。店を出る時に盗難防止のブザーが鳴った。「すいません、解除してませんでした」店員が出てきて言った。
同じコースを走って帰った。往復10.4キロだった。タンメン一食分くらいは消費できたかもしれない。
『夢の木坂分岐点』読む。前回読んだのは3年前だったが、その時より今の方が読むのにふさわしい状態にあると思った。3年の間に無意識や夢についての考え方が変わったこともあるだろう。
娘と胎内めぐりをする場面が面白かった。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と似ているところがあると思った。年下の女の子と迷宮を通り抜けるところや、ずぶ濡れになるところ。
『夢の木坂分岐点』の主人公は、覚醒したまま無意識世界への潜行を試み、そこにある自我のパーツを分析している。まるでこの作品を書く時の、作者の態度のようだ。書かれたのは80年代半ばで、その頃の筒井康隆は想像力が狂騒的に溢れ出すという状態にあった。だからこそ、自身の無意識への潜行というおっかないことができたのだと思う。というより、無意識とのチャンネルが開いていたからこその想像力だったかもしれない。
小説に限らず、創作者は自身の中にある迷宮を形にする作業をしばしば行っている。夏目漱石『明暗』で、湯に入った津田が自分の部屋に戻ろうとして迷う旅館は迷宮そのものだ。津田はそこで、運命の女性とばったり会う。
この迷宮イメージは、男性作家だけのものなのだろうか。女性作家が持っているものも、迷宮という形をとっているだろうか。それとも別のイメージなのだろうか。
女性の主人公が迷宮を彷徨って、運命の男性と出会うという物語は、なんだか違うような気がするのだが。