変化の起点

先月、妙な夢を見た。

自分の部屋に子供がいてしくしく泣いている。かわいそうになって、よしよしと抱いて慰め、寝かせてやるという夢だった。

六年くらい前、こんなことを書いた。

心が思い通りに動かず、焼けただれていくような感じを抱いていた時期で、まるで自分の中に獣を飼っているようだったので、このように書いたのだった。

今月一日から毎日走るようになった。そして昨日、走っている時にふと思った。
先月夢に出てきた子供は、この獣と同じものだったのではないか?

獣が暴れるのは走っている時が最も多かった。何かを考え始めるとそれが妄想になり、どんどん攻撃的になっていくのだ。まさに、獣が暴れている状態だ。
なぜ走っている時に起きるのかというと、肉体が苦しみを感じているため、妄想発動時、オレは誰かに苦しめられているのだという前提ができてしまっているためではないかと思う。普段、手持ち無沙汰の時も妄想はするけれども、攻撃的になることはない。

といっても、マラソン大会が近づいている時以外、走るのは多くて週に二、三回だったし、たまに習慣化して毎日走る時期があっても、距離は5キロ前後と短かった。走る日が数日おきなら、妄想に気をとられることはないし、距離が短いと、妄想する暇がない。

今月は、最初のうちけっこう妄想に苛まれていた。暑かったので苦しみもひとしおだったから、獣呼び出しスイッチが常にオンだった。
あー苦しい、オレをこんな目にあわせる奴は誰だ、あいつか? あいつか? あの野郎、今目の前にいたら、これこれ、こうしてやる、ハッ? オレは何考えているんだ? 走らなきゃ、走ってるじゃんか、だから苦しいんじゃんか、誰がオレをこんな目に、あいつか? いや、一番腹立つのはあいつだ、十年前にあんなこと言いやがって、今目の前にいたら、ああしてこうして…

こんなことをぐるぐる考えながら走っていては、肉体が健康になっても精神が不健康になる。

しかし、昔から走る時には音楽を聞くことが多かった。走っている時は暇だからというのが表向きの理由だったけど、音楽を聞いていないと余計なことを考えてしまうから、本能的にそれを避けようとしていたのかもしれない。

子供が出てくる夢を見た時、獣と結びつけて考えることはなかった。ただ、今までそんな夢を見たことは一度もなかったので、変だなあと思っただけだった。

先週、岩井へ行ってきた。
海にぷかぷか浮かんでいる時に、不思議な感じを覚えた。誰かに呼ばれてここに来たのではないかという感じだった。
誰にだろう?

その時、不意に、7月に夢の中に出てきた子供の姿が頭に浮かんだ。あの泣き方、小さい頃にしたことがあるぞ。
どこで?
ここでだ。岩井でだ。

波、ザッパーン、鼻に海水、ゴボゴボタイム、岸辺の荷物確認、ある、よし、平泳ぎ、からの、再び背浮き。

…オレは岩井で、あんな風に泣いたことがあった。8歳の時だ。
夜、浜辺で花火をやって、保養所に戻る時、なぜか大人たちとは別の道を歩きたくなり、道を一本それて、暗い中を一人で歩いた。
街灯の下に集まる昆虫とか眺めて、たぶん10分くらい遅れて保養所に着いた時、母が、ディック・ザ・ブルーザーのような顔をして近づいてきて、泊まり客の前にオレを立たせ、謝りなさいと怒鳴ったのだ。

そうそう。オレは子供の時から、他の人とは違う道を勝手にふらっと歩いてしまう傾向があった。
秋葉原で、長いエスカレーターに興味を持ち、一人で総武線ホームまで上がっていったこともあった。下りエスカレーターで元の場所に下りた時、オレがいなくなったと、母とその友人のおばさんたちは騒いでいた。
秋葉原の時は、その場で笑い話になった。しかし岩井の時は違った。父の同僚の家族も宿泊している手前、かなりきつめに怒られたのだ。
なぜ秋葉原では怒られず、岩井では怒られたのか、そして何を謝ればいいのかもわからず、立たされていることの恥辱感だけひしひしと感じ、泣いてしまったのだった。

夢に出てきた小僧の泣き方は、まさにあの感じだったよ。するってえと奴は、子供時代のオレか?
ぜんぜん似てなかったがなあ…

と、岩井では海に浮かびながら、そういうことを思ったのだった。

先週末、今度は伊豆の修善寺に行った。母の友人の別荘があったのだ。ここも子供の頃によく行った。具体的には、5歳から9歳まで。それ以降、一度も行ったことはない。ヒトんちだし。

昨年、地図サイトにはまった時期があり、その時にふと気になって、修善寺周辺の地図を調べた。すると、別荘に行く途中にある湖を見つけた。湖から先は、どんな道を通ったのか覚えていたので、ストリートビューを使って別荘の場所を特定することができた。これ、行こうと思えば行けるじゃんと、2018年版のオレは思った。

そして2019版のオレには「実際に行ってみる機能」が実装された。アプリかオレは。

伊豆ともなるとクロスバイクで行くのは厳しかったので車を使った。顛末は、数日前のこの懦ブログに書いているので割愛するが、ここでも、夢の中の子供のことを思い出した。
思い出したというよりも、別荘周辺を散策した時、その子供が虫取り網片手に走り、その後をついていくというイメージが浮かんだのた。

小僧についていくと、そこは管理人の家にある池だった。
グロいことを思い出した。
子供の頃、オレは捕まえたバッタを池に放り込み、鯉がバッタを飲み込むのを眺めていたのだ。で、夜、自分がバッタになって、鯉に食べられる夢を見て、恐ろしさに震えたのだった。

岩井でも修善寺でも、夢の中の子供が出てきた。
しかし、オレは別に何かを思い出そうとして旅行したわけじゃなかった。今は夏。休暇を取って観光する大人のオレ。何がおかしい?

その後、逆上したように観光おじさんとなって、山を降り修善寺周辺に向かい、スイーツを立ち食いし、中国人観光客でひしめく足湯を眺め、熱海へ行きサンビーチで背浮きで浮かんだ。今度の背浮きは、誰かに呼ばれてここに来たと思うことはなかった。

翌日、TOKIOに帰って走り、その翌日も稽古をしてから走った。いつものように妄想が発動した。しかし、これまでとどこか違ってきているように感じた。妄想している「獣」が、息絶え絶えになり、途中で疲れてしまう感じなのだ。本体のわたくしは、♪黄色と黒は勇気のしるしー、などと古いCMソングを脳内に響かせながら走っていたのに。

そして、獣が自分の中に潜んでいるという感じがしなかった。

獣はオレの外にいて、自分と併走していた。

走りながら語りかけた。

お前さんは誰なんだい?

さっき、あおり運転の犯人のこと考えて、怒り狂ってたけど、恨みでもあるのかい?

そりゃ、腹立つ野郎だけども、そうやって想像の中で痛めつけたって、何の意味もないんじゃないかね?

こいつ、誰かに似ているな、と思った。自分じゃ何もできないから、想像の中で力を持った存在になって、他人に力をふるう感じ。

そして昨日は夕方7時から走った。青梅街道を善福寺の手前まで往復。走っている時に「そういや、なになにだなー」と、何かについて思ったのがきっかけで、妄想が発動した。

「なになにが、もしこんなことになったら、すげえムカつくよな? そうしたらオレは、ああしてこうしてこうやって…」

「待て待て」と、走っているオレ本体が声をかける。「なぜそうやって、悪い方向に想像力を傾ける?」

獣は、もはや獣と言えるほど、恐ろしい見た目をしていなかった。別に目で見えていたわけじゃなく、存在としての感じ方が獣ではなくなっていたということなんだけれども。
で、獣でなくなってきたそいつがわかった。

お前、夢に出てきた、小僧じゃね?

直後、妄想はおさまり、小僧は消えた。不思議なことに、小僧が怒りを覚えていた対象に、オレ本体はなんとも思っていなかった。だから小僧が引っ込むと、なんでオレはあんなに怒っていたのだ? となった。

妄想が発動する瞬間をとらえたのはそれが初めてだった。

今日は夕方実家に帰った。夜、江戸川区松江方面まで走った。
走りながら、あの小僧出てくるかなあと思ったが、出てこなかった。そして妄想もまったくしなかった。

小僧の夢を見た前日、ブログでこう書いた。

岩井行きも伊豆行きも、この時に思いついたのだ。そして、小僧の夢を見たのは翌日だった。

子供の頃によく行った土地への旅を思い立ったことで、オレの中の小僧が反応し、夢に出てきたのか?

それとも、もともと行きたがっていたのは小僧の方で、オレに気づかせるため、夢に出てきたのか?

ネットで、「夢に出てくる子供」という単語で検索すると、インナーチャイルドという言葉が出てきた。

うわっ、まんまじゃん、と思った。でも、オレ、インナーチャイルドに関する知識はないし、本も記事もまったく読んだことなかった。だから、自分でそれに寄せて、そういう夢を見たわけではないと思う。

いずれにせよ、今日走った時、妄想は発動しなかった。自分からしてみようと試してみても、できなかった。過去、腹が立った色々なことを思い出しても、怒りがわかなかった。
小僧は、出てこなかった。でも、いるな、という感じはあった。自分の中にだ。
「ばれちまったか」
という照れ笑いを浮かべ、走っているオレの肋骨かどこかに座り、ゆうゆうと景色を眺めているような感じだった。

そして小僧は、オレが見ていると、獣になれないらしい。

不思議な体験だった。獣に対し、お前は7月に見た夢に出てきた子供だろと問いかけただけなので、体験というのは変だが、岩井へ行った時から昨日のその瞬間までの過程は、やはり「体験」と書いた方がしっくりくる。

このことで自分がどう変わるのかわからない。しかし、長いこと気になっていた背中の巨大おできがとれたような感覚がある。何らかの影響はあるだろう。どうなるかはわからん。しかし、もしも数年後、大きく変わっていたとして、その起点はいつかを振り返った時のために、今日はこのように書いた。全然変わらないかもしれないけど。